特集レポート

人と文化が行き交う城下町、高崎市連雀町エリア一帯の歴史を調べてみました

古くは宿場町として栄え、市制施行後は教育振興と文化芸術振興を掲げてきた高崎市。市民に開かれた市の実現を推進する、高崎という都市について、現在に至るまでの歴史を調べてみました。

江戸時代には城下町として発展

『東海道五十三次』の作者として知られる江戸の浮世絵師・歌川広重。その広重が手掛けた「五街道」の浮世絵に『木曽街道六拾九次』があります。この中には、木曽街道基点の日本橋から数えて14番目の宿(しゅく)として「高崎」の街の様子も描かれています。
当時の高崎市は、江戸幕府の開祖・徳川家康の側近で高崎藩初代藩主の井伊直政によって、平安時代後期の「和田城」跡地に「高崎城」が築かれ、商いの盛んな城下町および宿場町として賑わっていました。物件周辺の地名「連雀(れんじゃく)町」の「連雀」は、一説によると、江戸時代の商人が荷物を背負うときに使う紐、背負子(しょいこ)を指すのだそう。きっと、街の中で、連雀で売り物を担ぎ往来する商人と町人の姿が多く見られたのでしょう。

『木曽街道六拾九次』
『木曽街道六拾九次』

連雀町エリア
連雀町エリア


「高崎城」の歴史

県内に現存する唯一の城郭建築を持つ「高崎城」。5万坪を超える広大な敷地で威容を誇った城には、高崎藩であった時代においては藩庁が置かれ、1889(明治22)年に高崎市の前身である高崎町になってからも、引き続き町の中心として役場が置かれました。当時の町役場は、現在の「高崎城」大手門の150mほど東(現・宮元町にある「スカイビル」の場所)にあり、市制が施行されて10年後の1911(明治44)年には洋風木造瓦葺きの新庁舎に建て替えられました。洋風木造瓦葺きの新庁舎は、時代の最先端を行くモダンなデザインだったと言います。
時が経過し、移転した21階建ての現庁舎は、同じく城跡の中に建っており、展望ロビーからは市街地と「高崎城址公園」を見渡すことができます。

「高崎城」乾櫓
「高崎城」乾櫓

高崎城跡
高崎城跡


高崎市役所」と「高崎公園

高崎市役所」が建ち、市政の中心地である高崎城址およびその周辺は、市民交流の場でもあります。市庁舎の21階には市民が自由に出入りできる展望ロビーとレストランがあり、ここからは城址公園を見渡すことができます。また、市役所の南側にも緑豊かな「高崎公園」があります。高崎市の市制施行よりも前、明治時代初期に開園した、高崎市内では2番目に古い歴史ある公園です。春は満開の桜、夏は噴水と池、秋は紅葉と、四季折々の移ろいを見せる公園で、休日は人々で賑わいます。

高崎市役所
高崎市役所

高崎公園
高崎公園


文化・芸術の地としての高崎

高崎市は、文化・芸術に情熱のある土地柄です。「高崎市役所」の正面玄関とロビーには、国内外で活躍する作家が高崎市をイメージして創作した作品が数多く展示されています。これらの作品は、地元の民間事業者が高崎市の文化振興を願い、寄付金を出し合って集められたものです。
市内で初めて開館した「高崎市立中央図書館」も、市内の有志により設置された私営図書館「私立高崎図書館」がもとになっています。
また、実は群馬県は全国初の文部科学省指定「音楽モデル県」です。その契機となった“群響”こと「群馬交響楽団」は、高崎市の「群馬音楽センター」を本拠地として活動していた日本の地方オーケストラの先駆的存在。このセンターも、実は市民の募金と賛同を得て建設された施設です。地域の人の文化芸術への熱意と想いの強さは、高崎市のならではの魅力とも言えるでしょう。

高崎図書館
高崎図書館

建設中の群馬音楽センター
建設中の群馬音楽センター


大衆文化も幅広く発展

高崎映画祭
高崎映画祭

落語や大衆演劇、活動写真(映画)などの大衆文化についても、高崎市は一時期5軒もの劇場・演芸場が置かれるほどに活況を呈していました。明治時代に発刊された『高崎繁昌記』では、当時において県下随一とされた高崎市内の劇場「高盛座」で地方歌舞伎や文芸講演会、歌舞伎巡業公演などが上演されて大いに賑わっていた様子が描かれています。
同じく『高崎繁昌記』に登場する劇場「藤森座」は、のちに映画館となり、その歴史は「高崎中央銀座商店街」のシンボルであった「オリオン座」に受け継がれてきました。
特に映画は地元新聞社の社屋に「活動写真常設館」が設けられるほど親しまれてきた、高崎市の重要な文化芸術の一つです。1987(昭和62)年から毎年開催されている「高崎映画祭」は、県内外から2万人以上の観客を集め、80作品以上が上映される日本映画界の一大イベント。地元の有志で始めた会は、著名な映画俳優をゲストに招く、全国的に高い評価を集めるほどのイベントに成長しています。


教育にも力を注ぐ街

文化芸術の育成に向ける高崎市民の熱意は、「教育振興」を重要な柱とする高崎市の市政も下地にあります。明治維新直後の1872(明治5)年に国が学制を出した翌年、市内にあった私学跡地に市内公立小学校の第1号である「第12番鞘町小学校」(現在の「高崎市立中央小学校」の前身である「中央尋常小学校」)が開校しました。大正時代初期までには合わせて4校の小学校が開校し、市内の就学率が男女平均で97%を超えるほどに高かったそうです。
「高崎経済大学」は、市から産業経済界に有為な人材を送り出す高等教育機関を創り出したいと願った市民の熱意により設立された公立大学。現在も経済・地域政策の研究を行う関東北部唯一の高等教育機関として、市内外から優秀な学生を集めています。開学の地である高松町には石碑が今も残ります。

高崎市立中央小学校
高崎市立中央小学校

「高崎経済大学」開学の地
「高崎経済大学」開学の地


県内有数の交通の要衝

高崎市が「商都」として発展を遂げたのは、江戸時代の高崎宿時代から続く、群馬県内有数の交通の要衝であったことも関係しています。市制が施行された明治時代中期以降、鉄道が開通していない県もあった当時において、停車場が建ち、官設鉄道や馬車鉄道などが次々と開通しました。
昭和初期には東京都内と日本海側を結ぶ重要路線、上越線が全線開通。次いで「八王子」と「高崎」を結ぶ「八高線」も開通し、高崎市が東日本の交通拠点都市として発展する礎が築かれました。停車場時代から数えて4代目にあたる現在の駅舎は、上越線の発展形、上越新幹線が「高崎」駅を全車種停車駅に決定したことを契機に建設されたもの。
「高崎」駅には現在も関東一円から多くの路線が乗り入れ、高崎市の利便性を大きく向上させている巨大ターミナル駅として稼働しています。

「高崎」駅
「高崎」駅

「高崎」駅に停まる新幹線
「高崎」駅に停まる新幹線


老舗店も多く残る

高崎は江戸時代の宿場町から続く商都として、外から持ち込まれる新しい文化と、地元で受け継がれてきた旧来の風習の両者が大切にされてきました。
そのため、現在の高崎市も新旧が程よく融合し、ともに存続し繁栄してきた歴史の一端にふれることができます。人気のカフェやレストランが新たに出店しつつも、明治維新から間もない頃に開業して以来歴史を紡ぐ茶舗「茶の金子園」や、「高崎」駅の開業時に創業した駅前の旅館「豊田屋旅館」など、市内には老舗と呼ばれる店舗が数多く残り営業を続けています。

金子園
金子園

豊田屋旅館
豊田屋旅館


長い年月をかけて築かれてきた歴史を抱く高崎の街。街を歩くと、城下町の雰囲気や、文化、教育、交通など、その味わい深さをうかがい知ることができました。連雀町で見ても、昔から変わらず現在も高い利便性を持ちながらも、落ち着きある住まいの場所としても最適なエリアになっていました。


発見ポイント!

「サーパス高崎連雀町」が建設予定の大手前通り
「サーパス高崎連雀町」が建設予定の大手前通り

  • (1)江戸時代から商人・町人の街として栄えていた歴史ある街!
  • (2)文化・芸術にも昔から力を入れている!
  • (3)県内有数の交通の要衝!